黒羊咩咩 / kokuyoh meme

東堂尽八は二人いる



「こんな時間に出歩くとまた反省文だぞ」
「その言葉そっくりそのままお返しするわ」
「俺は反省文など書かされたことはない」
「ポイントはそこじゃない」

 箱根の町並みが見渡せるこの場所は、私のお気に入りの場所だった。箱根学園の学生寮にある非常階段の最上階。真っ暗な箱根の山々の麓でキラキラと輝く温泉街を見つめていると、まるで山を挟んで上と下両方に星空が広がっているみたいで、私は消灯時間が過ぎた後によくこの場所に来てはぼーっと景色を眺めていた。私しか知らないと思っていたその場所を訪れる人間が他にもいると知ったのはつい最近のことで、初めてその相手である東堂尽八と鉢合わせたとき彼は美しい景色を前にしているとは思えないほど深刻な顔をしていた。

「東堂さ、あんまり悩んでるとハゲるよ」
「なっ! この俺に限ってそんなことは、」
「原因はカチューシャとヘルメットによる外的刺激とストレスかな」
「勝手に人がハゲる前提で話を進めるな」

 山神、美形、スリーピングビューティ。そのうちのいくつかは自称だった気もするけれど、東堂には沢山の肩書きがあり、そのうちの一つが「箱根学園自転車競技部副部長」だった。
 伝統的な部活で2年にして副部長になるのはきっと大変なんだろうね。初めて出会った夜に私がそう言うと、東堂は少しだけ驚いた顔をしたあと困ったように笑った。否定もせず、肯定もしない。別にそこまで親しいわけでは無かったけれど、その姿は噂で耳にしていた真っ直ぐで煌びやかな「東堂尽八」とは少し違って見えて。
 それから私たちは時々こうして非常階段で出会うようになった。待ち合わせも次の約束もないそれは逢瀬と呼ぶには淡泊で、何より私と東堂の間にはそんな甘酸っぱい感情は一切無かった。

 初めて出会った日から、私の元にはどんどんと自転車競技部の話が舞い込むようになった。いや、多分もっと前から彼らはよく話題に上っていて、私の脳がようやくそれを受容し始めたという方が正しいのかもしれない。風の噂で耳にする東堂尽八はやっぱりキラキラ輝いていて、どうやらファンクラブまで存在しているようだった。興味本位でファンクラブに入っている友達に東堂のことを訪ねると、彼女は目を輝かせて「東堂様はね、」と休み時間いっぱいを使って東堂の魅力を語ってくれた。大変申し訳ないことに、授業が始まる頃私の脳に残っていたのは「登れる上にトークもきれる」という謎のフレーズだけだったが。

 薄暗い階段に横並びになって座る私たちの間を、涼しい風が通り抜けていく。夏とはいえ標高の高いこの辺りは、夜になるとかなり涼しくなるのだ。生乾きの髪が少し冷たくて思わずくしゅんとくしゃみをすれば、東堂が眉を顰めてこっちを見た。

「年頃の女子なのだから髪ぐらい乾かしてから出て来たらどうだ」
「何それ、お母さんみたい」
「由宇、ちゃんと髪の毛を乾かしてから寝なさい」
「東堂がそこにノってくるとは思わなかった」

 私がこうやって実際に言葉を交わす東堂は、やはりみんなが噂する「東堂尽八」とはどこか違って見える。箱根学園自転車競技部の副部長で、登れる上にトークもきれる美形の東堂尽八はずっとずっと高いところにいる気がするのに、本人は私の隣で特にきれるトークを見せるでもなく「さっきのはお母さんの真似にしては声が低すぎたな」などとどうでもいいことを呟きながら夜の空を眺めている。私が知らないだけで、もしかしたら東堂尽八は二人いるのかもしれない。


「というか東堂、私の名前知ってたんだね」
「伊津だって俺の名前を知っているだろう」
「東堂はほら、有名人じゃん」
「そうだな、美形ゆえの存在感というのだろうか……この東堂尽」
「うっざ」
「うざくはないな」

 普段からうざいと言われ慣れてるんじゃないかと思うほどのスピードでそう言った東堂は、失礼なことを言われたのにも関わらず夜空を見上げたままフッと表情を緩めた。

「伊津は分かっていないな」
「ハイハイ、東堂尽八様の魅力ならもう十分に」
「違う」

 一言。たった一言なのに、それは今までに聞いたことがないくらい優しい声で。「じゃあ何が」と続けようとしていた私は中途半端に口を開いたまま隣に座る男を見つめた。

「星空を眺める横顔も他者に媚びないその態度も、相手の気持ちを慮る気遣いも、教室の前を通ったときに目を引くほど明るく朗らかな笑顔も」
「え、あの、」
「濡れた髪から滴る雫だって美しく見えるほどに伊津は魅力的だということを分かっていない」

 東堂の口から紡ぎだされた言葉が自分に向けられたもので、なおかつそれが自分に対する賞賛の言葉であるということを理解するのは簡単では無かった。

「……え?」
「風邪を引く前に部屋に帰れよ」

 私の脳がようやく正常に活動を再開したのは、間抜け顔でパクパクと口を開いたり閉じたりする私を見てふっと笑みを深めた東堂が私の頭にタオルを乗せてそう囁いた頃。
 それでも相変わらず私の口は言葉を忘れてしまったようにだんまりで。私は箱根学園と書かれたタオルを頭から被ったまま、鉄の扉の向こうに消える東堂の後姿を黙って見送ることしかできなかった。

「な、なんだ今の」

 やっぱり、東堂尽八は二人いるのかもしれない。




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